薄らぼんやりとしているうちに何歳か歳をとっていたようだった。
　ここに来てからというもの晴れるアテもない霧が年がら年中立ち込めているので季節はおろか今がいつなのかさえ分からないのだが、オレと一緒にこの世界にすっ飛ばされてきた哀れな携帯電話によればオレがここに来てからすでに５年が経過しているようで、どうりで最近腰が痛むようになってきたと２０代半ばにしてはやけにジジ臭いことを考えながら、俺はデスクワークを中断して汚い事務椅子の背もたれに凝り固まった背中をギィと預けた。

　残像領域。

　それがこの鬱屈とした世界の名前だ。あくびをしながら見上げる錆びた倉庫の天井の向こうは霧に覆われ、ただ鉄クズが転がってるだけのゴミ捨て場みたいな場所である。こんな陰気な世界でも人の営みはあるようで、だからこそ俺も５年経ってもここにいるのである。まぁ、営みっつっても真っ当なものではないのだが。
「キースさん」
　背後から声がしたのは椅子をギーギー左右に回しながら体をほぐしていたときだった。
「何だ、ブス」
「ブッ―――」
　椅子ごと振り返ると面食らったような表情で硬直している女がいた。最近専属オペレーターとして雇い入れた女で、あまり造作はよくないがやけにまぶしい色の頭をしている。
　名前は確か、ドロシーと言ったか。
「ひどいです…前の職場では結構カワイイとか言われてたのに…」
　涙目になってやがる。人の事言えたタチではないが、カタギとは思えない目つきに不釣り合いな気の弱さとハッキリしない態度は、細かい仕事をした後の疲れ切った脳味噌で相手していると妙に腹が立ってくる。
「ンなモン男しかいねェ職場だからチヤホヤされただけだろうがブス」
「あの、それよりワタシ…」
「オレぁ忙しいんだブス」
「いや…だから、頼まれててた物―――」
「とっとと失せろブス」
　オレがひらひらと手を振ったのと、ヤツの蹴りが鋭くオレの肩に突き刺さったのはほぼ同時だった。痛かった。オレは椅子から転げ落ちてパニックになったイモムシみたいにのたうちまわった。
「…人がしおらしくしてれば、ブスブスうるせーッスよ、この童貞！！」
　いつもの調子がウソみたいな剣幕である。聞き捨てならないが痛みで転げまわるしかない。そんな俺の顔面にダメ押しとばかりに分厚い紙の束を叩きつけてきた。
「これ！　頼まれてた召集されてる傭兵のリストッスよ！　ワタシも準備があるってのにわざわざ出してやったんだからありがたく思うッス！！」
　紙束に埋め尽くされた視界の向こう側でドカドカと足音が遠ざかって行った。完全に聞こえなくなってから、俺は紙束を片手に椅子に這い上がる。
「…仕事はしてんだな」
　紙束に目をとおすと、ドロシーの言うとおり今回の召集に応じた傭兵たちのリストだった。名前と簡単なプロフィールだけだが、名うての傭兵ともなればそれだけで十分な履歴書であり、実際リストの中には名だたる傭兵の名前も確認できた。
　その中。
「―――へぇ？」
　ふと。流し読みしていたリストの中程で思わず目が留まる。
「ババアも生きてやがったか」
　そこにあったのは見知った名前だった。僚機として契約を結んだそいつの名前は、名前を覚えられない俺でもさすがに記憶に止まっていた。
「だったら話は早え」
　思うともなく背後を振り仰ぐ。
　巨大な人型がそこにあった。胸が鋭角に張出し、人というには若干イビツで異形にも見えるそれは、この世界にのみ存在し、この世界唯一のテクノロジーの結晶ともいえる汎用兵器、ウォーハイドラだ。オレ専用にチューンされた長年の相棒となる機体である。
　屹立するその勇姿を見上げながら無意識のうちに左目を縦断する傷痕を指でなぞっていることに気づき、苦笑が漏れた。
　本当にこの世界に飛ばされて来てから、いろいろなことがあった。
　ムカツク事の方がはるかに多かったが、一度手に入れた名声と金の味は絶対に忘れらない。
「忘れられねェよなァ」
　前回の召集からどうしても抜けない癖だ。上から掌で押さえつけると、まるで熱でも帯びているかのように傷痕と掌が脈動する。
　忘れられるわけないのだ。金と名声の味も、何よりまだ礼をしていないヤツの姿も。
「だから、また俺に付き合ってくれよ。相棒？」
　抑えても、それでも抑えきれない衝動が口から音になってこぼれ出る。こぼれた俺の声は、ただ広く薄汚れた倉庫に低く吸い込まれていった。