きっかけは些細なことだった。
ダサい負け方をした私は、鯨の腹を思わせるドックに干渉病棟を押し込んだ。補修ラインを示す黄色と赤の線が交差したマークを目印に、軸が歪みがらがらと鳴る車輪を転がす。いつものように辺りはお釈迦になりかけたハイドラでごった返していた。シートのビニールも剥がしてないようなビッカビカの（まるで塩ビ人形を思わせる）ハイドラにわざとぶつかり、無理矢理順番を譲らせる。一体どこを痛めているというのだ。補修ラインを洗車場と勘違いしているのだろう。カメラに剥きたてのゆで卵のようなガキが口をぱくぱくさせているのが映る。中指を立てて応えてやった。
メカニックとも馴染みになっていた。もっとも馴染んでいるのはあくまで機体とメカニックであって、私とメカニックは必要最低限に少し足りない程度の会話しかしない。足りない分は余分な金で埋めている。もしくは、外殻に箔押された有機設計有限公司の文字も少しは助けになっているのかもしれない。油と鋼に塗れた男たちの世界は、幼い頃からその中で育った私にもわかるようでわからない。
アプローチに接続した後、コクピットから居住モジュールへと移り、この先何万回着たとしても慣れることはないだろう防護服に身を包むと三重になったエアロック（この場合ミストロックと呼ぶべきか）を抜けて外へ出た。ありとあらゆる金属が反響しあいドックを埋め尽くしている。
タラップを通って休憩室へ向かう。補修が終わるまで人気のないところでやり過ごしたい気持ちでいっぱいだが、何故だかここのギルドはパイロット共の所在を管理したがる。ドックが商業都市に併設されているせいもあるのだろう。豚も狼も街の中に入れるべきではない。
劣悪なきぐるみのようなフォルムでひょこひょこと歩く私を見て赤と青のジャケットを着た二人組が吹き出す。頭の横で指をぐるぐると回す仕草のおまけつきだ。

クソったれが。

仮眠室（このギルドにもかろうじて性別ごとに部屋を分ける程度の想像力はあったらしい）で眠り、設定しておいたアラームで目覚めた。いつものように首を寝違えている。防護服のうなじの周囲は換気カートリッジと排出パイプで占拠されていて仰向けだろうがうつ伏せだろうが安眠できない。せめてクッションでも仕込んでほしいのだけど、有機設計のおっちゃん達はいつも馬鹿笑いして流す。むかつく。
喉が乾いたし空腹だ。蒸れた汗で不快だし、トイレにも行きたい。何より煙草が吸いたくてたまらない。
負けると面倒だ。悔しさや不利益よりも面倒さが先に立つ。補修の間は干渉病棟に入ることができない。この世界であそこだけが私の領地で、他はたとえどんなに親しい人間がそこにいたとしても、私にとっては水中に酸素ボンベ付きで沈められているのと同じことだった。
大袈裟に言えばこの世界は私の敵で、しかし世界は私に興味が無いのだった。
そうして溜め込んだぐじゃぐじゃをNETで中途半端に吐き出して、毎日をやり過ごしている。ろくなものではない。
補修ラインに向かいかけて踵を返す。煙草が切れていたのだ。ピリミアータ。だいぶ時代遅れの有煙系だが、母さんが吸っていたこともあって私はこれに決めていた。購買部へ向かう。その瞬間世界が反転する。頭、ついで全身に鈍い衝撃。覗きこむにやけた顔。
さっきの赤と青の二人組だった。どうやら足をひっかけられたらしい。最悪だ。ヘッドキャノピに罅が入っている。

霧　　が　　入　　り　　込　　ん　　で　　き　　た　　か　　も　　し　　れ　　な　　い　　。

二人組がなにか言っているがまるで耳に入らない。喉が痒い。こめかみとおでこと眼の奥が痒い。同時に鈍い痛み。実際に霧が入ってきたかどうかは問題ではなかった。かもしれない、というだけで私の身体はこの祭りを嬉々として始め出す。肺が溶ける。心臓が七角形になって潰れる。自分の呼吸が死にかけの豚の嘶きのようだ。涙が溢れて鼻水と涎と交じり合っているそれを眺めて二人組がげらげらと笑っているのがかすかに分かった。
もういい。
もう、いいよ。
私がいったい、何をしたっていうんだ。
真っ赤に塗りたくられた精神が肉体に先行する。渾身の力を込めて男を突き飛ばし走った。ぶっ殺すぶっ殺す死ね死ね死ね。後ろからだみ声と足音。私もおんなじ気持ちだよ。幸いなことに補修は終わっていて、手首のキーを叩きつけるように干渉病棟を開ける。いつもの暗闇。洗浄液を浴び、コックピットに飛び込む。
起動。一気に最高速まで回して、飛び出す。警告もなんもかんも無視しているから警備ハイドラが立ちふさがる足元をメカニック達が逃げていく。さっきの二人組が乗るクソダサいラメピンクのビッグハイドラが目に入った。

　ありったけの爆装をぶっ放してやる。ああ、いい気味だ。