ENo.0008　エリカ＝ヒースハイデ

「画家は死んでいなかった」

男は誰もいない部屋の中で黒のクイーンを持っていじり回していた
ちなみに男は現在の立場こそ偉いが出身が出身なのでチェスのルールはよく知らない
男の目の前のチェスセットは技師が勝手に置いていった私物である
しかしあまり使われた様子はない

「だから、俺も死ぬ訳じゃない」

盤上の真ん中に黒のクイーンを置く　クイーン以外の駒は全て箱にしまわれたままだ
男は立ち上がり　複数台並べられて稼働している除湿機の横を通り抜ける
その姿は棚の奥へと消え……　戻ってきた時にはその手に大きなバッグを抱えていた
バッグをカートの上に置き　また棚の奥へと消えていく
それを三度ほど繰り返した頃　男の耳に声が飛び込んでくる

「それ全部持ってく感じ？」

彼はチェス盤の前に膝を抱えて座っていた
黒のクイーンをじっと見つめる顔は男の慣れ親しんだものだ
しかしその表情は男が今まで見た事もないほどに冷たく乾いていた
あいつもこんな顔ができたのか　男は一瞬目を丸くする

「ああ」
「へえ～、頑張るんだね」

彼はさほど興味もなさそうに言った
男にはわかった　彼はきっと男の作業に馬鹿馬鹿しさを感じている
あまり表に出す事はなかったが　彼は出来上がった作品に対して愛着が薄いようだった
なんなら全て捨ててしまっても構わないと思っているかもしれない
しかし男はそうしない　技師もきっとそうだろう
彼はそれがわかっているから男の行動に口を挟まなかった　言っても意味がないからだ



男は棚とカートとを往復する
視界に入る彼に声はかけなかった　今や声をかける必要などない
彼の生きていた頃も特に頻繁に喋る事はなかったように　男の心は落ち着いていた
……しかし　彼の方から喋りかけてくるなら話は別だ

「尻尾くんさあ」
「何だ？」
「俺ちゃんの事好きだった？」

……男は返答に詰まった
それは言葉が出てこないというよりは彼の意図がわからなかったためだ
彼はそんな事を男に聞いてくるような性格ではなかった

「……当然だ。残像領域の誰よりも、俺はお前が好きだよ」
「それってどういう好き？」
「さあな、適切な表現がさっぱり浮かばん」
「ふぅん」


「お前は」
「ん」
「俺の事も、技師の事も、何とも思ってなかったんだろうな」
「何ともじゃないよ？　家族みたいだって思ってた」
「家族に対してそんなに情が湧く性質じゃないだろう？」
「まあそうなんですけどぉ」
「……お前が夢中なのは、エリカだけだ」
「……うん」

男はつかつかと靴を鳴らして棚の奥へと向かっていく
その背中にかけられた声

「ハルクっ」

男は思わず振り向いた
最後に男の記憶に残っていたものより幼く弾むような声色
そこにいたのは記憶よりもあどけない　純粋な笑顔を浮かべた彼
男は忘れていた　彼の本当の笑顔を　共に過ごすうちに彼の笑顔からは混じりっけの無さが薄れていた
常に男に向かって貼り付けたような笑顔を見せる彼は目の前から消えていた
彼は両手の人差し指を軽く頬に当てるお決まりのポーズをしながら言う

「俺ちゃんについてきてくれてありがとねっ」



「…………ははっ」

「こっちこそ。今まで俺を導いてくれてありがとう、……ゼノビア」

背後から聞こえるカタカタと何かを動かしているらしい物音
男が荷物を抱えて戻ってくる頃には物音は止み　彼の姿もそこにはなかった
駒の入った箱には開閉された形跡　盤上の黒のクイーンは白のクイーンにすり替わっていた
それを一瞥した男はカートを押して部屋を出て行く
彼の残像は二度と男の前に姿を現すことはないだろう
男の胸の内に寂寥感はなかった

*にゃー*