ENo.0044　ロウシャ・ゼイルストゥラ

　医務室。
　ロウシャは、杖を頼りにしながらも概ね約束の時間通りに訪れた。ノックの一つもなしに乱暴にドアを開け、中に誰かいるかどうかの確認もせずに、淡い青のカーテンを潜る。

　「元気かい？」

　ロウシャがほとんど崩れるようにして診察台に腰掛けると、デスクと向き合っていた白衣の男が、顔を見るよりも先に声をかけた。時間と乱雑な訪問からして、すぐに判断がついたらしい。棚にしまってあった分厚いファイルの中から一番白いカルテを、そして胸元のポケットからボールペンを取り出して振り向き、微笑む。


　「元気に見えんのかよ」

　とりあえず食ってかかるのは、もはや彼の性分である。短気ここに極まれりと言い換えることもできるその態度は、よく他人を困らせていた。

　「いや、ボクも目のいいほうじゃあないけど……そうでもなさそうだね」
　「チッ、じゃあ最初から聞くんじゃねーよ」

　ふんと鼻を鳴らして、ロウシャは機嫌の悪さを露呈させながら着替え始めた。マフラー、上着……ほとんど左手だけで、脱いでは器用に畳んで籠に放るのを繰り返す。窮屈な搭乗服から、一つサイズが大きいのでないかというほどに緩い検査衣へ。着替えが終わると、彼は勝手に診察台の上に横たわった。
　医師もまた、短気さにはとっくに慣れたといった様子で苦笑して誤魔化すと、様子を見ながらカルテにメモを取り始める。
　
　残像領域――最も、この土地がそう呼ばれているとロウシャが知ったのは、迷い込んでから暫く後のことだったが――に来てからは初めての対面だったが、彼らには面識があった。いかにも優男といった風体の医師ザック・ハートは、ロウシャにとっては二つ前の戦場での主治医であったからだ。言ってしまえば馴染の顔ということになる。……とはいえ、とりわけ仲が良いということもなかったが。

　「で、具体的に調子はどう？久々に出撃してみてどうだった？」
　「吐いた」
　「ま、そうなるよね。だって君の機体、速いんだもの」

　ああいうのは格闘機って言うんだっけね……と、ザックが呟く。
　Neamhain【ネヴァン】の名を与えられた黒い機体。それは十数ｍもの巨躯を持ちながら、時に目で追うのが厳しいほどの速さで戦場を駆ける。一人では杖がなければ歩くのも困難な青年が、一度そのハイドラと共になれば、弾丸飛び交う戦場の中でも自在に躍る。ライダーではないザックにとっては大層不思議なことだった。そして、人一倍心配だった。

　「無理はしちゃいけないよ。何度も言うようだけど、君が出撃する時に飲んでる薬は一番強いやつだからね。……本当は、ターミナルケアの時期に使うようなものなんだから。それ以上強い薬なんて――」

　ロウシャは特に返事も相槌もせず、天井を見つめていた。寝ているわけではない。ただ、心ここに在らずの様相で宙を見ていたのだった。

　「あのー……ゼイル君、ボクの話きいてくれてる？」

　声を掛けられて、ようやく何かが琴線に触れたといわんばかりに眉間に皺が寄る。

　「左はな。右は聞こえてねぇ！」

　ロウシャは寝台に寝そべったまま、話題を遮るように突然左腕を差し出した。ザックは溜息をつく。しかし、その表情は呆れたように笑っていた。いつものこと、たったそれだけである。
　手際よく血圧計を準備し、差し向けられた手首をとる。年頃の、しかもハイドラを乗りこなしている青年のものにはとても見えない、筋肉の落ちた腕。口を開いたのを見れば、何か言おうとしたらしかったが……話を逸らされたことを鑑みて、やめたようだった。

　「そうそう、来週以降にまた視力と聴力の検査するから、そのつもりでね」
　「あ？所属変わるときに一回やったぞ」
　「実はボクのところにその結果が回ってきてなくてね……」
　「……藪医者だから信用されてねぇんじゃねぇのか」
　「ひどいな、ボクが何年医者やってと思ってるの」
　「……知らね」

　話をするのも聞くのも飽きた患者は、大あくびをして目を閉じた。この先の時間帯、この場所を訪れる患者がいないことを知っているからだ。逆を言えば、そういった時間にしか彼は診察室を訪れない。

　「先に点滴にしてくれ……眠い」
　「はいはい。終わったら起こすから、文句言わないでね。起きたら一応レントゲンと……」

　……ロウシャは、針を刺される痛みを感じるより先に、寝息を立て始めたのだった。




　- vital signs -

　今日は藪医者が勝手に記録したのでなし