――フォスフォラスへ

　悪いが、下僕の契約はもう終いだ。アタシはアンタの望むような人間にゃなれない。
　新しい有能な下僕を探すなり、隠遁するなり、どうにかしておくれ。

　当面の生活費としてクレジットは置いて行くから、好きに使うと良い。口座番号は****、パスワードは******。



「ン、こンなモンさね」

　魔法使いのアトリエに、古風なペンを置く音が響く。
　ヨシノは手紙を書いていた。
　このご時世に何ともアナログな方法で、しかもその字はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、あの魔法使いに伝えるにはこの方法が最も確実で手っ取り早い。ヨシノはそれをよく知っていた。

　魔法使いと共に過ごした一年間は無益ではなかった、とヨシノは考える。少しばかりの知識を得たし、文字を書くことができるようになった。
　傭兵に文字を書く能力は殆ど必要が無い。そもそも、十全に書くことができる者の方が稀だ。
　傭兵風情が文字なんざどうせ書けない、ということを雇用主も知っている。故に大抵の書類はサインだけで済まされるし、それ以前に、契約が紙の文書上で行われる方が珍しい。
　機械化が進み、ウォーハイドラが闊歩するこの時代だ。電子機器を扱って文字を打ち込むことさえできれば、おおよそのことは済む。
　だから、ヨシノは今まで自分の名前以外に文字を書くことが殆どできなかったし、しようとも思わなかった。
　あの魔法使いが、やたら熱心に読み書きを勧めてくるまでは。

「……」

　ヨシノはそれに応えていた。安穏とした生活を送る中ではそれくらいしかやることが無かったし、加えて勉学が苦ではない性質のようであった。
　けれども、それでも、目の前の紙に書いたように、自分は彼が望むような人間になれるとは思えない。
　これ以上、ここに居る必要は無い。
　何より、ヨシノにはやらねばならないことがあった。

　ヨシノは立ち上がって、これまた古びた紙をちょいと持ち上げた。目に付きやすいところ――この場合、魔法使いが愛用する炬燵の上――にそれを置く。
　仕上げに、左手の中指に填めた銀色の指輪に手を伸ばした。
　これはフォスフォラスから貰ったものだ。下僕の証であるらしい。最初は首輪を渡されたが、丁重に断った。
　兎も角それ以来、ヨシノは多くの時間をこの指輪と共に過ごした。
　それも今日で終わりだ。
　指輪を摘まみ、少し力を入れれば、するりと指から指輪が抜ける。
　ああ、こんなものかと。魔法使いと己を繋ぐものは、こんなにも些細で、ちっぽけだ。
　何の感慨も無い。

「……さて、行くかね」

　思うことなど何も無いのだ。
　フォスフォラスとはある種の契約を結んだ状態にあった、とヨシノは認識している。
　お互いに都合が良いから、主従関係のようなものを結んだ。
　都合が悪くなったから、契約を破棄した。
　それだけ。雇用主と傭兵のありふれた関係と同じ。何度も何度も繰り返してきたことではないか。

　思うことなど、あるはず無いのだ。



　――世話になったね。



　ヨシノは書置きの最後に一文だけ付け加え、魔法使いのアトリエを後にした。