病院の冷めた壁は、霧のように何かを映すのにはうってつけの白だった。

　そこに、ヤクモが見舞いに現れる。アンナも一緒だった。あの戦いのあと、オンラインによるやり取りはいくらか行ったため、顔を見るのは少しばかり久しぶりに思うが、全く平熱の再開となった。

「やあ、そっちも散々だったようで」。
「マルチプレクサ、サンダウン共にコア・ビルドは健在でした。既に完全に修理が整っています」
「……俺もまあ今は外を歩ける。あんだけ霊障浴びても一生医者付きにならんで済んだようで、悪運てのを久々に実感してるよ」
「私もまあ、しばらくすれば仕事を再開するつもりだよ。強めの鎮痛剤を入れれば今日からでも働けるがね。命をベットするような真似は、これきりにしようと思ってねえ。それなりにちゃんと療養してからの仕事にするつもりさ」
「アンナとはよくやってるようじゃないか。え？　あんまりこんなことを言っちゃあ、無駄なミスが増えてしまうもんだが、お前さんの機体を診るようになってから、格段に腕が上がっている」
　アンナの顔を見れば、平静を装った風にしている。一人でいるときの方が表情の豊かな娘だ。だからきっとこいつも、ハイドラ乗りに向いている。
「止めてもまたやるんじゃないかと思ったんだが、それは安心だ。正直グレースさんがあのアセンブルで出なけりゃもっと危険だっただろうけどな」
　渡されたカタログをめくりながら、会話を続ける。
「確かに得られるものはあったがね。感ずるものはあったし、技術的にも更なる改善が見込めるだろう。乗っている最中に思いついてショックアブソーバーに関するスケッチを描いたから、持ち帰ってエイドリーたちと検討してみておくれ」
　病院からの印刷物を裏紙にし、ボールペンで描いた機械のスケッチをアンナに渡した。噴出回転機構オーロラのメカニズムを転用し、ちょっとしたダンパの役目を果たすようにしたものだ。

　＊　＊　＊

「さて、療養に専念するにしても、そろそろ次の仕事の話をしたいねえ。アンナ、あちらさんからの要請は来てるかい」
　アンナは膝に端末を乗せ、依頼を読み上げる。その途中、ヤクモが声を上げる。
「未確認機……なんだって？おい、こいつは」
「婆さん悪いが撤回だ、またちょっと無理してくれ。コイツだ、セラを撃ち堕としたのは……
気をつけてくれ。あの日は霧が濃かったが、こいつは霊障機体ですらない可能性がある。空気の振動がなかったことから格闘だ。それから、レーダーの動きに注目するんだ……俺はあの日、そいつを捉えられなかった」

セラを撃ち堕ちしたのは。

ヤクモは確かにそう言った。

「ふむ……なるほど。いいだろう」
ならば、私は応えなくてはなるまい。

「奴と彼女を葬らせてくれ」
　私はその言葉に、頷きと視線を送る。
　しばらくの沈黙は、霧がゆっくりと動いていて、その向こうが見えるまでを、待っているようだった。
「お前の最も恐れるものに踏み入らなければならない。私はそう言ったな。最も恐れているものは、直視することができないからだ。だが――踏み入ることは出来る。目を瞑っていても。深い霧の中へと這い入るウォーハイドラのように」
　戦場の混沌において、あらゆるものは実在と非実在の霧に沈む。
　その霧を晴らすことは出来ない。その霧を明らかにすることはできない。
「そして目を開くことを決意したとき、それは失われている。最も恐れるものは直視することは出来ない。それを決意したとき、それは既に、最も恐れるものではなくなっているからだ」
　その霧が晴れたとき、すでに対処する必要はなくなっている。
　霧の中に潜むものを撃ち抜いているか、あるいはそれに撃ち抜かれている。
「感謝するよ。グレースさんが僚機で良かった」
　そう言って、ヤクモは退席する。
　私は、めぼしいパーツにチェックを入れたカタログを、アンナに渡す。
「アンナ、こいつをよろしく」

　ハイドラ乗りは、常に霧と共にある。

「……先ほどのアブソーバをヨシノの化け物に耐えられる代物にしておきます。武運を」