ENo.0325　小夜啼鳥

甘美、芳醇、――むせ返るような、この香しさ。
場末という表現が似合うこの酒場いっぱいに広がるこの香り。

杖を鳴らして足を踏み入れた場所は、惨憺たる有り様。
一歩進めば、砕けた硝子が音を立てる。
また進めば、今度は爪先にぴちゃり、と水音。
俯くも、視界に不自由がある女には、その液体の色までは判別が出来ない。

右を見れば、椅子に逆さまに座る誰かがいて、
左を見れば、床を舐める誰かもいる。

惨たらしい光景の室内。
カウンターの傍。誰もが倒れている中、ただ一人、立っていた人物に、随分と中に歩んでからようやく気付く。

佇むのは男。この場に残るただ一人というのに、その瞳は冷たい。
向かい合う位置。
無防備にふらふらと歩み寄る黒髪の女を見て、男は訝しく思うだろうか。

正真正銘、初めて出会う男の前。
ようやく女は立ち止まり、そして恭しく頭を垂れる。

顔を上げる。
視界を遮る白い布が顔半分を覆っている。
それでも、唇を綻ばせて、微笑んでいる事は伝わろうか。

悦びの表情を浮かべながら、女は唇を開く――――……




「はジめまシて。素敵な御方。　――結婚シてくだサイ」

後に。
運命の出会いだったと女――”小夜啼鳥”が語る、クドラトとの、初めての、夜は。
一段と霧が濃く、月すら見えない日の出来事であった。