ENo.0187　タリス・シエルタ

呼び出された場所に向かって歩みを進めながら、軽く思案する。


元々コロッセオには一人で向かうつもりではあった。
何せあの『生き残りたがり』の仕事仲間を連れていけるような場所ではない。

だが思い付きとはふとした拍子に降りてくるもので……気付けば何かと縁のある者への挨拶と共に、誘いの言葉を口に出していた。
……単に熱に浮かされているだけかもしれない。ただ、コロッセオに向けて楽しみだと感じていた事は覚えている。

その理由まで今は思い当たらないが、それは果たして俺自身の物か、そうではなく、彼らの内の誰かを真似ていることによる錯覚か。
きっとそれはコロッセオを終えてから、もう一度考えればいい。

そして折角の承諾を貰えたのだ、あの男には悪いがこの暴れまわる楽しみに巻き添えになって貰うとしよう。
……あれだけの動きが見られるなら、それもまたいい刺激になる。


そうして考えを巡らせる内に、目的地へとたどり着いていた。

本当に人が此処に住んでいるのかと疑問に思いたくなるような外見の一部屋、303号室。
その外見を見て少しばかり疑念を抱きもするが、その時はやるべきことをするまでだと結論付けた。

お守り代わりにポケットの中の拳銃を握りしめ、中へと進む。
ヒヤリと肌を撫でる空気を感じながらも視線を巡らせて、寝転がる男に気づけばそこで歩みを止めた。

起き上がりながら出迎える、インバネスを纏った男。
その調子と言葉から目的の相手だと確信すれば、顔を覆うバイザーの先へと視線を向けて。

「こちらも誘いに乗っていただいた礼もありますから。
そしてお会いできて光栄ですよ、リー・イン……こうして会うような事は避ける方かと、勝手に思っていましたが。」

いつもの様に、いつもと変わらず、淡々と言葉を紡ぐ。
だが、自分でその様に言葉を紡いでから渦巻くもどかしい気分に、ため息を一つ吐いて。

「……いや、そうだな。今はこれはやめておこう。
コロッセオ絡みはいつもの気分ではなくてな、気にしないでくれると助かる。」


頬を緩める、言葉を崩す。
それは友好のつもりではあるが、それと共に目元を緩めぬ牽制でもあり。


「金は使って流すのも重要な事だ、俺みたいに使うのをサボるやつもいるからな。
いつか返してくれるならそれで構わない、今回のコロッセオの巻き添えになって貰う礼もある。
……ちょろまかしたりやり過ぎるのならそれなりの事はさせて貰うが。」


勧められた椅子を見やれば、僅かに眉を動かすのみに抑えてそちらに向かう。
位置取りとしては良いところだろう、真っ先に見られるのはインバネス男となるわけだから。

「リーンクラフトミリアサービス、そしてその整備屋ね、噂くらいは聞いたことがある。
……まぁ、俺は基本的には口出しはしないつもりだ。
何にせよ、あんたが上手くやれることを願うとしよう。折角の協力者だからな。」


椅子の座り心地は見た目から想像できる通りか、それ以上のものだった。
だが今さらそれをどうこう言うつもりもない。

ただどんな奴が来て、この男はどの様に取引をするのか、それを楽しませてもらうのみ。
『お守り』を握りしめたまま、ただその時を待っていた。

残像領域ではおよそ全てが霧に覆われる。濃淡の差はあれど、ハイドラ乗りたちは皆『それ』を纏って戦いに臨む。望むと望まざるとに関わらず。
時に袖の触れ合う距離すら見通せなくなり、逸れたはずの銃弾が襲い掛かり、甚だしいケースでは時の流れすら大きく食い違う。
戦場は霧という渾沌に包まれる。戦士は霧を纏う八又の怪物に包まれる。怪物は己と全く異なる姿の怪異に囲まれる。
全てが貴方に牙を剥く。そこでは人の認識は酷く脆く、疑うことと信じることは同じ価値しか持たない。それは貴方の心を守りはしても、貴方の命までもは守れない。不安の山を切り崩したところで、戦場で人が死ぬという自然現象から逃れることは誰にもできない。

では、全ては無駄なのか。それは有り得ない。
理に適い技術の粋を尽くしたパーツアセンブル、敵機を把握し所持火器に対応した装甲の備え、機影を捉え行く先を見切り未来に向けて引鉄を引く訓練は必ず貴方の戦果と生還率を高めるだろう。
それでも尚足りないのだ。漸近すれども到達することは永遠にない。その差は理や経験では埋まらない。最後のピースは必ずすり抜け、或いはつっかえる。

何が貴方を生かしてきたのか。ある者は幸運と言うだろう。ある者は歌が。ある者は業、技術、呪い…何者かに守られていると言う者さえいるだろう。同じことを謳い、今は霧のどこかに消えた者もいるのに？
彼らを分けたあやふやな何か。どこにでも収まる、しかし意識的には到達しえない何処かにある何か。あらゆる積み重ねを足がかりにただただ霧の中に伸ばした手だけが掴める何か。
それこそが霧中のパスポート、戦場への適性そのものなのだろう。

おかえり、怪異の戦士たち。でも忘れないで、今日帰ってきた貴方が明日霧のしじまに消えていかないとも限らないことを。
パスポートの有効期限は当日限り。貴方は馬車馬のように戦い、他に何の役にも立たない殺しのライセンスの更新手数料を払い続ける。望むと望まざるとに関わらず。