ENo.0281　アビダン

霧のない青空をモニタ越しに見つめながら、アビダンは猫みたいに目を細めた。晴れた空が眩しかったからではない。だからどうした、と思ったからだった。様々の通信が飛び交っていたが、そのどれもが、アビダンにとってはどうでもよかった。
あの黒犬に触れたのを最後に、ゴートリンデン——クラウス、と呼ぶ方がよいか——の顔もまともに見ていない。あれからアビダンは、許される限りの時間をハイドラの中で過ごし、そうしてさらにそれが許される限り、眠り続けた。今日の出撃の以前からもずっとアビダンはハイドラの中に待機していたので、ゴートリンデンとのやりとりも通信上のものだけに留まった。
操縦棺の中には、持ち込んだジャンクフードのゴミかすが散らばっている。もう何も食べるものは残っていなかった。アビダンは常のようにさざめくノイズとミストの巡る音の中に体を預けてぼんやりしながら、忙しく飛び交う通信を聞いていた。そうしてその通信とはまったく関係のないことを考えている——ただ解き放たれたいと。ただ漠然と——何から。どこへ？
ノイズ。さざめく、笑うような。もはや慣れきったそれの中で、アビダンはあごを胸につけ、膝を抱え、上目遣いに再び晴れた空を見た。
その後マルスはどうしているか。リオは。ニャマ。あの竜みたいなハイドラ。廃棄場で会った男。アビダンが残像領域ですれ違ってきた顔、顔、顔が、ぼんやりと浮かんでは消えていく。すべてが曖昧だったが、それでも覚えている。いまだ覚えている——確かに。マルスのあの削ったガラスみたいな不思議な目だとか、リオの鮮やかなオレンジ色だとか——それから、ゴートリンデンの無骨な横顔。煙草の煙。出来立ての料理の匂い。覚えている。
いいんだ。何だって。生きてさえいれば。また会える。覚えている。それだけのことだ。だからおれは、


ーーーーーー　ーーーーーー　ーー　（ノイズ）

（音声記録）（いつかの）（誰かの）（啜り泣きまじりの）　ーー　ーー　　　ーーーー　　ーー　ーーーー

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——この録音をあなたが聞く事があるかどうか、わからないけど。
ただ話しておきたいの。自己満足ね。でもいいの。そう、私、今日までただ待っていた。ずっとあなたを待ってたの。
でも、無駄だった。何もかも無駄だった。私のしたことはみんな。こんなことになってしまって。ほんとうに。
私が悪かったの？　あなたを試すためだけに、こんなところまでやってきた私が。愚かな私が。
そうしてあなたは来なかったし、私ももうどこにも戻れない。そうして死ぬだけ——この残像領域で。
別にいいの。それが私の選択だったんだもの。でも、このことだけは、何がいけなかったのかわからないの。
順調だったのよ。突然のことだった。ハイドラが……、気がついたら、もう、全部が終わった後だった。
あんなに大事にしていたのに。そうして、あんなに私を苦しめたのに。そのどちらの重さも、そっくり失ってしまった。
私、あの子に会ってみたかった。それだけ。それだけだった。あと少し、本当に、あと少しで、会えたのに。
だってきっと、あの子あなたに似ていたでしょうね。会いたかった。本当に……、ああ。ごめんなさい。
事故だったのよ。何人も死んだ。事故を起こしたライダーも、死んだって聞いてね。
だからもう、どうしようもないのよ。誰にも怒れないの。どこにも行けないの。何もできないの。
だから私、もういいの。これでお終い。でも、こんなことになっても、私まだあなたを愛してるのよ。おかしい話ね。
あなたの顔なんか、今でもはっきり思い出せる。目の色。癖のある髪。頸の生え際。爪の形。首の太さ。腕の筋。……、
でもあなたはどうかしらね。私の顔なんか忘れてしまった？　構わないけど。どうせ死んでしまうんだから。
私もう、何も怖くないの。死ぬ事も。元々、失うものなんか何にもなかったんだから。
ただ……、ほんとうに、一目でもいい、ただ、あの子に会ってみたかった。
それだけよ。ただ本当に、それだけだったの。そのためだけに生きていたのよ。でももうお終い。
あの子はいないの。どこにも、もう本当に、何もない。だからもう、これでいいの。
さようなら、　　。

（どくん。）