ENo.0328　"Canary"

戦場からの帰還――棺から出て生者に戻る。

ハイドラ"Canary"を整備士に任せ、格納庫の奥に進む。
その一角にある一室が今の家だった。

入口のドアは大きく開いたままになっていた。
警戒する間もなく、奥からよく通る女性の声が聞こえてくる。

「あっ、ごめんね、始めるのが遅くなっちゃって。でも今ぜんぶ終わったから！」

妙齢の女性が小走りに出てくる。
首の後ろで結ばれた長い赤毛はやや乱れ、白い頬にはうっすら紅みがさしている。
整備士の妻にしてこの格納庫の持ち主、すなわち今の大家だ。
日々の洗濯のほか、週に一度、戦場に出ている間に部屋の掃除を済ませてくれる。
その対価は家賃に含まれているから気にするなと、大家本人は言っている。

「おかえりなさい、リュー。ゆっくり休んでね」

掃除機を手に出てゆく彼女に礼を言い、ドアを閉める。
オートロックが動く音を確かめてから部屋の奥に向かう。
一人には十分な広さのワンルーム。シャワーとトイレ、簡単なキッチンもある。
もともとは作業員の仮眠室だった場所を手直しした部屋だ。

パイロットスーツを脱ぎ捨て、シャワールームに向かう。
付けっぱなしのモニターが目の端に映ったが後回しにすることにした。
消したはずの画面に勝手に映像が流れることも、ここではそう珍しくはない。

シャワーを終え、最低限の下着だけ身につける。
きれいに片付けられたキッチンでコップを取り出し水を飲んだ。
モニターには映画かドラマのワンシーンが流れている。
夜の路上、整った顔立ちの男女が向かい合う場面。
感情的な様子のやり取り、抱擁、口付け。恋人同士だろうか。

――いつか、誰かを好きになることなんて、あるかな。

その「いつか」はもう過去のものかもしれない。
違うと断言できる根拠は自身のどこにもなかった。
けれど、それが分かったところで今に何の影響があるだろう。
いや、影響があるのかないのかさえ――

もう辿れない過去にこだわるのは滑稽だ。
霧の中に生れ出た子供は、霧の中でライダーとなった。
そう、道は二度絶たれている。おそらくは。

こうして記憶の崖を眺めるのは何度目だろう。
自らの不毛な繰り返しに呆れつつ、空のコップを片付ける。
映像はいつの間にかニュースに切り替わっていた。
企業連盟の動向、バイオスフェアと未確認機の話が繰り返されている。
過去よりもずっと確かな、見るべき未来。

戦場のハイドラが映し出されたとき、ひとつ忘れていたことに気が付いた。
自分の下着姿に少し後悔する。シャワーを浴びる前に気付けばよかったものを。

音声のみで済ませようとも考えたが、思い直して手近にあったジャケットを手に取る。
古着屋で買った少年向けのもので、小柄な少女の身体にはやや大きいが、
生地が良く汚れにも強く重宝している。

上着を着ながら、伝えるべきことを考え、組み立て、まとめていく。
その一方で、こういう時はもう少しマシな格好をと思わなくもない。
大家にも新しい服を買いにいこうと何度か誘われているが、
忙しさを理由に断り続けている。
どうにも面倒で気乗りしないことは否めない。
ハイドラのパーツを眺めている方がよっぽど気楽だ。

とりとめのない映像を流すモニターを消し、端末の前に座り直す。

……　……

一通のメッセージを送り終え、上着を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込む。
目を閉じながら、目覚めてからのことを考える。
まずはnanimaruへの連絡。今日の損傷具合からして、
今後の整備費の話をした方がよさそうだった。

改めてnanimaruの戦いぶりが目の裏に蘇る。
相変わらず無茶、けれど理にはかなっている。
そして、タンクの彼女とは動きの違う、黒い人型の機体。
情報の優先順位、サポートの……もういちど確かめて……

……　……

たとえば、帰り道を見失った山中の崖から。
あるいは、あたたかなベッドで不思議な夢を見ながら。
もしくは、道路を走るトラックの前から。

自身が望むと望まざるとにかかわらず、
残存領域に入り込んでしまった子供たち。

彼らのほとんどは身寄りもなく、
何の後ろ盾もないまま霧深い戦場を彷徨う。

彼らが還る場所はもう、霧の中にしかない。