ENo.0079　レナンティス

　そのときの自分は幼すぎて知らなかった。
　”魔女”や”魔物”と呼ばれる存在が、世間で忌避されていたこと。彼等に対する酷い差別意識が、その時代の人間たちにあったこと。
　自分が人間を快く思っていないのには、それもあるかもしれない。そんな陰惨なことが、堂々と行われる人間の社会には度し難いものを感じた。
　だがそのときの自分は。
　突然の来訪者に囲まれ、どこかへ連れて行かれるレナを前にして、そのときの自分はなにも出来なかった。
　彼女を引き止めることも、彼女を守ることも。
　そのあとに訪れる深い絶望から自分自身を守ることすら、出来なかった。



　レナが連れて行かれたのは屋敷の地下に繋がる階段だった。
大勢の人間――この屋敷の使用人達の人込みの足を掻い潜り、連れて行かれるレナへ追い着こうとしていた。幸い人々はレナに注目していたため気付く者など誰一人としていない。彼等は皆、レナを避けるように道を開け、そこを歩くレナを様々な目で見ていた。恐怖や興味、畏怖や奇異という多くの感情を混ぜて。
　とうとうレナが人込みを抜け、一歩を踏み出したとき彼女に追い着いた。彼女を囲んでいたいつもは見慣れない服の人間が猫を訝しげに見て、
「レ――」
　構わず彼女の名を呼ぼうとして、声は途切れた。
　その瞬間、思考は完全に混沌と化す。身体が浮き上がるのを感じ、頬に焼けつくような痛みを覚え、そして――地面の上に叩きつけられた。
（え……？）
　なにが起こった？
　自問する。
　視界が回転する直前、彼には見えていた。
　レナが、自分を足蹴にしようとしているのが。
「来るな！」
　彼女が怒鳴っていた。
　誰に？
　考えるまでもない。自分にだ。
「来るな！　どっか行っちまえ！」
　いつもの彼女からは考えられないほど、取り乱した声で。
　混乱した。
　なにが起こったのかもわからず、そこにある事実を見ることしか出来なかった。
　彼女が。
　他でもない彼女が、自分のことを蹴った。
　傷付けた。
（なんで……）
　起き上がり、なんとか足を踏ん張らせてレナを見ると――
「来るな！」
　彼女は自分を取り囲んでいる人間を振り払い、こちらへ走ってきた。
「レ――」
　名前を呼ぼうとして、また蹴られる。精神と脳髄が、同時に揺さぶられた。
「いなくなれ！　お前なんか、どっか行っちまえ！！」
　最後に腹を蹴られた。身体が派手に吹っ飛んだことがわかった。
　地面に叩きつけられても、痛みはもうなかった。ただ治まらない混乱が頭の中で渦巻いている。
　それでも意識も目も朦朧としながら、見ていた。
　途絶えるまで、見た。
　やがて泣きながら喚き散らす彼女と共に、世界は闇に飲まれていく。
　それが、最後に見たレナの姿だった。

がらくたと、猫と、幽霊と。
特に何もしません。まったり。