ENo.0079　レナンティス

　それからしばらくして、泣いていた。
　空から落ちてくる水の飛礫が、体温を奪っていく。顔だけがずっと熱く、焼けつきそうだった。
　結局、理解はしていたのだろう。
　いくら呼んでも泣いても、レナはもう自分の前に姿を現さないことを。
　なぜ泣いているのかもわからなかった。なぜ彼女が最後に、自分を傷付けたのかも。
　自分は裏切られたのだろうか？
　だとすればどうすればいいのか。
　なにをどう、悲しめばいいのだろうか。それとも悲しむ必要はないのだろうか。いろいろな感情が混ざり合って、思考に混沌を形成する。
　自分は、これからどうすればいいのか。
　――ふと。
「…………」
　泣き止んだ。
　そして、無心のまま右前足を眺める。少し力を込めると、紋様の入った爪が伸びた。
　生きるのが、辛くなれば。
　そういうときのために、彼女はこれを――
　思い出したとき、爪はもう喉笛に近付いていた。
　が。
「あーあ、捨てられたなぁ」
　聞こえた声に爪を仕舞い、振り返る。
「ラナ……？」
　ラナは上機嫌に、口の端を持ち上げていた。自分の心境に反して、ラナの口調はどこまでも軽やかに聞こえた。少なくともそれは、いままで聞いたことのない声音だ。
「しっかし、人間ってのは怖いね」
　そして――
　彼の中にあった疑問は、ラナが紡いだ次の言葉によって確信となった。
「ちょっと話題に出しただけなのに、あんな過敏に反応する」
　一瞬――世界のなにもかもが、ぐらつくような錯覚を覚える。
　足下も、視界も、己の中にあったなにか決定的な土台の崩壊と共に、大きく――どこかがずれてしまった。
「そんな……」
　枯れる声を、なんとか吐き出す。
　脳裏において鮮烈に浮き上がった確信は、なにがなんでも否定したかった。
　いけ好かない相手だと思った。きっとわかり合うこともないと思っていた。だがそれでも、自分とラナの間には唯一の絆があったことは忘れていなかった。
　自分たちは、同じ、レナの家族なのだと。
「じゃあ……お前が……」
　だからこそ信じたくなかった。導き出された答えを否定したかった。
　それでも残酷に、ラナは肯定した。
「そうだよ。オレが、”レナが隠れて飼っている猫が不思議な術を使っているように見えるのだけれど”って”相談”をした」
　刹那。
　憤懣が、弾けた。
「っ――ああああああ!!」
　即座に神経を接続する。風の推進力に乗せて、ラナに向けて駆け出した。
　だが。
「遅いなぁ」
　肉迫したそのとき、ラナはひょいと身を躱す。そこに着地すると同時。ラナは背後に現れ――
「……っ!?」
　踵を横っ腹に殴りつける。
　体重差も手伝って、派手に吹っ飛ばされ――ながらも石畳に激突することは避けた。反転し、なんとか着地する。
　紫の視線が、そこで交差した。
「なんで……」
　滾る感情をぶつけるようにラナを睨み、言う。
　いままでに起こったすべての感情が、少年に対する怒りへと帰結していた。
「なんで、そんなことするんだよ！　レナは……レナはお前の家族なのに……！」
「ああ、そうだ。――――【だからお前が邪魔だった】」
　嘲るような、ラナの返答。
「……！」
　はっきりした。
　自分とラナとの間に、絆など最初から存在していなかった。こいつは最初から――
「だから本当はお前が対象だったんだけどさ、まさかレナの方が幽閉されるなんて思わなかった。うん……ひどい誤算だった、認める」
　”レナ以外”を家族などとは、思っていなかったのだから。
「そんなことのために……！」
　再び疾走する。雨の中を真っ直ぐに突き進んで――突然、上から叩きつけられた。まるで己の重量が倍増したかのような圧迫感。
「遅いよなぁ、ほんと。お前がオレに勝てるわけないだろ？」
　そして、落下する。反転して着地したつもりが、足が重力の負荷に耐え切れなかった。石畳との衝突は免れたものの、着地した状態から崩れ落ちる。
「このまま殺すのも楽だけど、別にそんなことしたって面白くない。それよりも、オレはあの男の方を何とかしないといけないからさぁ？」
　ラナは上機嫌に言いながら、背を向ける
「そういうわけで得なんてありゃしねえから、見逃しといてやるよ」
「ラナ！」
　その背中に追いすがろうとするが――
「っ……」
　体力の低下が魔力を弱め、浮揚すら出来ない。
　それすら見透かしていたのだろう。ラナは嘲笑を浮かべながら、視界から遠ざかった。
「いつか会う事があったら、そのときはちゃんと相手してやるさ」
　言い残し、ラナは屋敷の中へと消えていった。
　ただ、ラナが消えた方を睨みつけることしか出来ず、紫眼に雨空を映し続ける。
　いつしか雨が止み、黒雲が晴れていく中、ある決意をした。
　――――屋敷の火災が起こったのは、それからほどなくしてからの事だった。

がらくたと、猫と、幽霊と。
特に何もしません。まったり。