ENo.0281　アビダン

小さな窓。外には間近に隣のビルの壁がせまっていて、景観も何もない。シングルベッド、割合清潔なシーツ、簡素な書物机。特別広くはないが、アビダンにしてみれば十二分な広さの一部屋だった。たまには金を使おうと思いつきで安宿を取ってはみたものの、だからといって特別なにかするでもない。アビダンは手持ち無沙汰に窓から身を乗り出し、下を見る。上を見る。汚れた狭い路地裏の風景、霧の漂う四角い空。いつもとさして変わらない景色だった。
アビダンは後ろに倒れこむようにして、ベッドに大の字に仰向けになった。煙草のヤニだかなんだかわからないが、染みの目立つ砂色の天井の真ん中で、耳をすませばかろうじて聞こえるくらいのジリジリという音を立てている電灯、遠くから聞こえてくる金属音——恐らくは工事の音、あるいはハイドラが立てたものか。

日ごと夜ごとに飯の種と新たな寝床とを探し、朽ちたハイドラの墓場を転々とする日々、たった数ヶ月前の——これまでアビダンの歩んできた人生に比べれば、今の生活は信じられないくらい豊かで、安定してる。ただハイドラに乗っている、それだけのことで。最前線に出なければまず死ぬこともない。仲間の支援なんかしなくても戦果は得られる。そうしてしばらく遊んで暮らせる程度の金は手に入った。もはや毎週律儀に出撃する理由もなく、降りるといえばゴートリンデンはそうかと一言返すだけだろうし、そもそもアビダンは本当のライセンスの持ち主ではない。

それだというのに、アビダンはもはやハイドラに乗り込まずには、出撃せずにはいられなかった。理由はわからない。手に余るほどの報酬のために？ あの言いようのない高揚感のために？　ハイドラに心があることを確かめてみたくなったために？　あるいはずっと乗り捨ての揺り籠だった、けれども今は確かに自分の、自分だけの操縦棺に収まるときの、あの不思議な充足感のために？
そのいずれにせよ、その全てにせよ。
５ヶ月、それだけあれば懐く、というゴートリンデンの言葉が反芻される。懐くという表現はしっくり来なかったが、否定はできない心境だった。あれだけ皮肉っぽく道具扱いしていたというのに、早く乗りたい、と思っているのだ。あのハイドラに。ミストの巡る血管の内側にある、あの操縦棺に。

きちんと洗われたシーツはぱりっとしていて心地よかった。無意味に手を這わせ、その感触を楽しんでみる。けれどもアビダンは空虚だった。ここにはひとつも高揚がない。
アビダンはけれども目を閉じて、退屈を殺す眠りが降りてくるのを待った。けれどもそれが降りてくるまでには、しばらくの時間がかかった。

（どくん。）