ENo.0612　P・ドロレス

　　　　　１

　霧。そして電磁波。
　大事なのはこの二つだけ。
　あたしはその間に立っている。顔に深々と霧が吹きかかる。目を細める、どれほどくり返し浴びても雨を伴わない霧の湿り気にはなじまない。垂れこめる霧の密度は咽喉と肺腑から逆に強く水を奪う。なんて息苦しい場所だろう。むせるような霧。一度咳きこむとずっと止まらなくなる。そうなったときにいちばん良いのは、ただ息を止めること。
　残像領域。いつでも何かが見えたような気がし、聞こえたような気がし、そうしてそこに在るような気がする場所――何かがたどり着き、けれどここを安住の地とすることはできない。憩うことはできない。なぜって、ここはどうしてもすべてのものが彷徨うための場所だったから。
　あたしは母さんの残像に会うためにここへ来た。
　こんなところへまで――母さん。あたしを見つけて、指さして、引き取って育ててくれた母さん。あの黒くて長い髪。青い瞳、作り物じみて白い肌。折りたくなるほど細い首筋。あたしとは似ても似つかない姿をした、あたしの母さん。
　いろいろなことを教わった。ドアの開け方と閉め方。手の洗い方、皿の洗い方。銃の撃ち方。トースターの作り方。どこでパンを買えばいいのか。買ってきたパンを、作ったトースターで焼くにはどうすればいいのか？　小さな庭の世話の仕方。よその家の芝の刈り方。どれくらいの頻度で身体を洗えば清潔でいられるか。ライトエイドでの薬の買い方、歯の磨き方。夜は何時ころ眠ればいいのか。
　母さんはずっと家にいた。出かけるときもあったけれど。それでも、決してそう遠くへは行かない。近所へ買い物に行く、たまにはと外食する。たったそれだけ。あたしを海に連れていくこともしなかった。家にいたところで、仕事をしていたというふうではない。母さんには、たぶん働く必要がなかったのだ。
　あたしはずいぶんあとになって理由を知った。たくさんの理由を。
　血のつながりは、あったんだか、なかったんだか。知らないし、わからない。調べてくればよかったのかも知れないが、あたしは飛び出してきてしまった――あの家から。母さんと暮らした太陽の下から、霧に覆われた残像領域へと。ここからどこかへ行くのは、たぶんそう難しくない。だけど、同じ場所に戻ることは難しい。元通りになることは。それに、そんな話をする前に母さんは死んでしまった。胸を押さえて、苦しげに咳きこみながら、自分自身の心臓の血に溺れながら倒れた。（あの花柄のソファー）外では雷が鳴っていた。（部屋のなかは停電して薄暗かった、よくあること）小さく雨の降る音も。（あの雨の音をもっとよく聞いておけばよかった）母さんはぽつりと、追いつかれてしまった、と言った。（いったい何に？）その口からもれた湿った息。（寒くもないのに白く煙るような吐息）いまならもう知っている、わかっている。あれは霧の匂いだった。母さんは震えながら少し困った顔をした、あたしにはそんなふうに見えた。
　それでおしまいだった。
　身震いしながらハッチを閉める。霧はひやりと冷たい。肺を侵すほど。暗く湿った空気と、深々と灰色をした空。太陽は見えない。灰色の空にあるのが、霧なのか雲なのかもわからない。閉めたところで、霧はかすかに、けれどたしかに操縦棺のなかへ入りこんでくる。そうなるようにしたのだ。小さな穴をいくつも開けて。
　霧。そして電磁波。大事なのはこの二つだった。
　頭のうしろにある、ぶよぶよとやわらかいキャップを外す。髪を剃ったあとに触れる地肌の感触。慣れた動作だったが、それでも注意は必要だった。場合によっては死ぬこともある――たったこれっぽっちのことで。そこには大きな傷跡がある、骨と肉が剥き出しになったままの傷跡が。そこには、私と《ネリールース》を接続するためのプラグが埋められている。私の脳をわずかとはいえ貫いて。
　この降霊型試行機体《ネリールース》は、霧と電磁波を浴びながら霊を呼ぶ――私のなかに残像する母さんの霊を求めて。
　いつか見つけられるはずだった、母さんはここにいるはずだった。この霧の向こうに、きっと、いまも。私はそう信じていたし、もしここに母さんがいなくても……呼び起せるはずだと思っていた。母さんが、私を覚えていてくれるなら。忘れないでいてくれさえすれば。
　ほかに組み上げたいくつかの試作機たちは、ぜんぶ《アルファ・ラルファ》のガレージに置いてきてしまった。ほかの降霊型の機体は、どれも《ネリールース》ほどの適性を示さなかったから。もうあそこへ戻ることもないだろう。無人のガレージ。埃に埋もれるだけのウォーハイドラたち。産み落とされる前から機能停止した子供たち。そろそろ母さんの遺産も尽きてきた。それでも、最低限必要なものは手に入れたはずだと思う。《アルファ・ラルファ》のお陰で、ずいぶん多くのものが私のところへやってきた――《ネリールース》を作るための方法、パーツ。そして何より、私は間違っていないはずだという確信。霧。そして電磁波。大事なのはこのふたつだけ。
　私は母さんの残像に会うためにここへ来た。
　いまはもう、ただそれだけ。

《廻帰財団アルファ・ラルファ》：

　残像領域にいつからか存在する、霊的研究・実験出資機関。
　霊障と霧、電磁波に関係する機体のアセンブル、およびこれらの研究・実験に対し出資を行う。

　過去には、
　溶解性搭乗機体《トラップドア》、
　生体型完全自律駆動機体《ブラックウィドウ》、
　降霊型試行機体《ネリールース》などのアセンブルに関わっている。


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《廻帰財団アルファ・ラルファ》は研究・実験のための出資機関であり、ユニオン参加者へじっさいに資金提供を行います。

　送金処理は毎更新ごとに、ENo.0612より行われます。
（出資額はそれほど高額ではありません。100～200c程度を予定していますが、変更もあるかと思います）
　
　ユニオンへの参加は、ENo.0612宛てのメッセージにて、研究・実験内容を申請してください。
　厳正なる審査ののち、返信メッセージとともに承認します。
　申請についてはP・ドロレスではなく、《廻帰財団アルファ・ラルファ》のオペレーターが対応します。


　なお、ENo.0612は毎更新、死亡許容で登録します。
　死亡した場合は同キャラクターを再登録し、再登録後は同ユニオンを設立する予定です。
　キャラクターの撃墜・死亡によってユニオンが解体されてしまった場合、それまでの参加者はユニオン再設立後に承認します。

　
　*** 整備特化 ***