ENo.0117　ワジオン・ブラン

　
　残像領域に到着したあの日から数日間、リビーとリオは医療機関に入院していた。リビーは左足の骨折と全身打撲によって。リオは時空震による身体機能不全と、それに伴う酷い次元酔いとで起き上がることさえ難しかったからだ。

　リオの病室のドアが静かにスライドする。
　青白い顔でベッドに横たわるリオは、目を開けているだけで視界が揺れて吐き気に襲われる症状がいまだに続いており、そのため紫色のカメラアイをしっかりと閉じていた。
　だが、来訪の気配を察したのだろう。おっくうそうに薄く目を開けた。……次の瞬間、ばちりと音がしそうなほど大きく目を見開き、そのまま慌てて起き上がろうとして、酷い目眩と頭痛に襲われ小さく悲鳴を上げる。

「ばっ！　……か、やろう。……起き上がってんじゃねえよ……！」

　呻きながら倒れこんだリオを見て、部屋に半身を忍ばせていたリビーが顔をしかめた。急いで部屋に滑り込み、松葉杖を器用に使って、ひょこひょこと素早くベッドに近づく。

「り、リビー……どうして、っ、左足、……あなたは、絶対安静……っ」
「大丈夫だ。もう繋がってる。心配すんな。俺よりお前だ」

　リビーは「よっこいしょ」と親父くさい掛け声をかけつつ、かたわらの椅子に腰を下ろすと、眉をひそめてリオの顔を覗き込んだ。
　複数の点滴の管とバイタルチェック用の機器に繋がれたリオの、いまだにどこか幼さを残す頬。青白さのためだろうか、痩けて見える。
　目の下にははっきりとした隈があり、いよいよ明確に彼の不調を示していた。――少々の不具合ならば、リオの体内のナノマシンは『隈など残さず』治療してしまうはずなのに。それがこの有様だ。

　彼の体は非常に精緻なバランスの上になり立っている。
　生体部分と機械部分というだけではない。生来の、生物としての生体部分と、有機生体部分と、無機的機械部分と、ナノマシンような遊離的関係部位。それらが緻密に絡み合い、精密な釣り合いをとって、彼は『生きて』いる。
　特に重要なのは、脳だ。
　彼の脳は生来生体部位で、換えはない。
　今、その換えのない脳に負担を強いられて、リオは横たわっていた。

「おら。大人しくしてろ」

　なんとか起き上がろうと、じりじり身を捩り続けるリオの肩を、リビーはそっと押さえてベッドに留めた。乱れた上掛けを整える。いつもの荒っぽい仕草からは想像もできないほど丁寧な手つきだ。

「ごめん、リビー……おれ、……」
「謝るな。次元酔いはお前のせいじゃねえし、まだ治らないのもお前が柔だからとか弱いとか、そういうことじゃねえ」

　ぽんぽんとシーツを緩く叩いて言い聞かせる声音は低く、鼓膜に届いてもあまり痛みを呼び起こさない。

「脳味噌を直接揺らされたようもんだ。鍛えようのない場所に、避けようのない直接ダメージ食らってる。用心し過ぎるくらいで丁度良い」

　骨ばった、それほど大きくはない、しかし鍛えられた掌がリオの瞼を覆った。温かくて柔らかい、苦痛のない闇が訪れる。頭痛が少し引く。珍しいことにリビーの掌からは煙草の匂いがほとんどしなかった。

「ユージンもモンテズマも、今は用事があって出てる。……ほら、目え瞑ってろって。……光が入らねえ方が楽だろう？」

　リビーの言う通りだった。些細な光の明滅も刺激となり、リオを苦しめる。入院して数日経つが、いまだに目を開けているだけでとても辛かった。

「本当は、声……、音も、よくねえんだよな。……悪い。顔見たらすぐ退散するつもりだったんだが……」

　話し込んじまった、と詫び、手を引こうとするリビーの掌を、リオは反射的に掴んだ。体を動かしたせいでぬるく吐き気がこみ上げるが、何とかやり過ごす。

「おい、馬鹿、動くな」

　抑えながらも慌てた声を上げたリビーを、リオは用心深く薄目で見上げた。頬には大きな外傷用パッド。頭には包帯。着ている服は簡素な病衣。松葉杖はベッドの柵に立てかけてある。横になっているリオからは見えないが、左足はギプスで覆われているのだろう。
　左足。あの恐ろしい怪我。黒金乱眼のコックピットから救出した時のリビーの姿を思い出し、腹の底に怖気が走った。

「……あなたが、無事で、本当によかった……」
「そりゃ俺の台詞だ。……お前が無事でよかった。バーントイエローの中で突然ゲロ吐いたの見たときは、肝が冷えたぜ」

　心配そうに見上げてくるリオの額を、リビーがゆっくりと撫でた。額から頭へ手を動かし、髪をすいてはまた額に戻る。心地が良いのか、リオはまるで幼子のように表情を緩めた。

「大丈夫だ。俺も、お前も、死にやしねえよ」

　眠っちまえ、と小さな声で言い聞かせるリビーの言葉に誘われて、リオはしっかりと目を閉じた。まなうらに闇が降りてくる。しかしそばには人の体温がある。一人きりでただ時間が過ぎるのを待っていた先ほどまでのような寂しさは、感じなかった。

「……煙草の、匂いがしない……」
「医者から止められてる。ここんとこ、吸ってねえ。……お前とも、約束してるしな」

　煙草の量を減らす、という約束をしていた。元々それほどニコチンに依存していたわけではないリビーにとって、煙草の本数を減らすだけならば、それほど難しいことではない。リオが望むなら。
　リオは嬉しそうに微笑んでから、少し決まり悪げに唇をもごつかせた。

「……とても嬉しい、けど、……おれは勝手だな。なんだか、あの匂いも、しないと……少し寂しい」
「……っはは。なんだそりゃ。じゃあ、次に来るときは一本吸ってからにするか？」
「えっ！？　っいてて、いや、駄目だ、折角……！　っ、たたた……」
「おい、落ち着け、落ち着け」

　またしてもじたばたと体を動かし始めたリオを慌てて嗜めるリビーの囁きは低く小さく、病室の外まで届く事はない。
　静かな病棟にゆっくりと夕暮れが近づいていた。

　

ワジオンが『雪華雪香』を格納しているガレージ。
白髪で背の高い男と金髪で小柄な男が、何やら話し合いながら機体の調整をしているようだ。

僚機『バーントイエロー』とガレージを共有しており、それぞれの領域を簡単にパーテーションで区切って使用している。
そのため、僚機のパイロットであるアンドロイドの青年とオペレーターであるサイボーグの青年の姿も垣間見える。　

広めで明るく機能的な設え。それぞれの居住区画もある。