ENo.0096　オルト・イスケー

例えばある夕暮。霧の晴れた残像領域、薄灰色の建造物群はあかね色に染まる。その光景に5年の歳月で慣れた者もいれば──炎にまかれたようだと忌避する者もいる。
マノ社残像領域支部技術開発班兼ハイドラ管理人のエズメル＝イズマル・イェツカは廊下を闊歩する。その足取りは窓から差し込む夕日に照らされた部分を無意識に避けていた。

「……ロド、入るぞ」

部屋の主の返事も聞かずドアを開ける。イェツカがここを訪れるのはいつものことだ。古い馴染みの腐れ縁相手に遠慮はなかった。

いつものようにデスクに突っ伏して寝ているロドを起こす。支部長室にもっと寝心地の良い椅子でもあるだろうに、ロドが普段居るのは医務室のパイプ椅子の添えられた小さなデスクだ。

「腰痛めるぞ、無茶できる歳でもねェだろ？」
「……余計なお世話、だ」

のっそりと起こした顔には無精髭が目立ち、──こちらはいつも通りだがボサボサの白髪が目元を覆っていた。最近は人前に出ることも多くなったからもう少し身なりに気を使えばいいものを。
（全く。本当に昔から変わらんな、コイツは）
残像領域支部が5年前……それより前の、ただの食品卸だったころとは比べ物にならないほど支部は賑やかになった。あの時任された小僧は父親のヅラし出すし、本社に押し付けられた兄妹も、今やいっぱしのハイドラ乗りとして働いている。契約とはいえ社員も増えたし、まさかこんなに騒がしい職場になるとは思ってなかった。
だのにこの男は変わらない。と半ばやけくそで椅子を蹴る。
きっとまた所属のライダーたちのヘルスチェックやらで徹夜していたんだろう。乱雑に積まれたカルテには神経質そうな書き込みが連なっている。こうした細かいバックアップが、あの暖かくてゆるい支部の風潮を支えているのだろう。
ハイドラライダーたちの身体情報は人それぞれだ。この多様性極まりない残像領域でモデルケースなど存在しない。それぞれ各人に各人の事情があり、またそれに応じた『メンテナンス』が必要だ。それこそハイドラのように。
──それにしても、妙に──

「妙にレアケースが集まってるようだが？」
本社の実験体、他社の被検体、異世界人、あるいは"マノ社の本社とは違う世界線の"地球人。
偶然だろうが、それにしても「研究者として興味を引き立てられる人材」が集まっているように見える。

まるで、そう、

"異なる薬品で発生する化学反応を楽しむような"

「……偶然だろう、残像領域じゃあ珍しくもない」
「そんなこたァわかってる。それにお前さんに聞いてるつもりもねェ」

言葉とは裏腹に、イェツカはロドの顔をまっすぐ見つめていた。

「アタシの独り言か、それか」

じっと、分厚い前髪に覆われたロドの眼に、声をかける。

「《上層部》にでも、聞いてんのさ」

薄曇の白髪の隙間から覗く、夕陽のような瞳に。

ええと、ハルカさんの弟さんですか……しばしお待ちを。

（通信を何処かに繋げるようだ。画面上にはケーブルを引っこ抜いて繋げる映像が表示されている）

前から少し伺っていましたが、やはりプライベート寄りの話でしょうから……ハルカさんと直接話された方が混乱もないでしょう。通信、繋ぎますね。