ENo.0030　ガブリエラ・ストークス

　手を伸ばす。握る。
　少し力を込めすぎて、腱が張って軽い痛みを覚える。
　指に絡むわずかな空気の抵抗。
　密着するパイロットスーツの摩擦。
　歩くだけで体重を受け止める衝撃の大きいこと。
　体温。
　むずかゆいほどの脈拍、心拍はまるで身体が揺れているかのようにさえ思わせる。
　胸の重み。
　濡れた髪のうっとうしさ。
　視野の狭さに加えて、ノイズとしか言いようのない瞬き。誰もがこんな不利を抱えてハイドラに乗っていたのか？
　そんな視界が捉えたモンキーレンチを拾い上げる。
　お手本のように、重心のある前の方が重たかった。リブの部分が手のひらに当たる。そうして形を感じ取ることができる。スーツの手袋を取れば、この鋳造由来のざらついた表面を感じ取ることができるだろうか？　委託のエンジニアがしていたようにそれを手元で放り投げて、再びキャッチしようとしたら、見当違いに飛んで派手な音を立てて落ちた。
　それがあまりにも大げさな音だったので、私は声を上げて笑った。

　そして鏡を見る。居室のシャワールームの側に据え付けられた、銀メッキのハゲかけた鏡。
　金色の髪。青い目。体積の多い胸。ソネルと比較すれば、脂肪の柔らかさが目立つ。
　女性。
　動けば動いた。喋れば唇がなめらかに形を追う。舌で触れると、そこは唾液でうっすらと濡れていた。
　表情を作ってみる。改めてそうしてみるならば笑みという表情は、思いの他攻撃的に見える。
　息をしている。
　
「私はここにいる」

　変わらず、私の声。女性の声。

「私はここにいる――これが私だ。これがEno30ガブリエラ・ストークス」

「索敵ランカー、ホルン・パラドクスのライダー。Eno49ソネルのパートナー」

　鏡に触れる。

「私はここにいる」

　その言葉の重みが、確かにある。

　貯水槽に落ちたことをきっかけに、私は自らの肉体を獲得した。あるいはその前のうたた寝から？　境目はわからない。しかしもはや、私は私の寄る辺なさを恐れる必要はなくなった。存在していると確信する一方で、その確信が酷く脅かされていることを不安に思う必要はもうなかった。ソネルと作業員の視線から、私の声が通じて、再び作業が執り行われることから、すべてはどうやら事実らしかった。
　私は居室へと戻り、己の身体を検分した。多くの方法で、形や、感覚などを試した。
　見れば見るほどに、触れれば触れるほどに、それに心当たりはなかった。肉体を備えても、それに関連する記憶が蘇ることはなかった。肉体を取り戻したのか、獲得したのかはわからない。けれども、それがなんだというのだろう。肉体の持つあらゆるセンサ、あらゆる能動性を前に、過去を備えていないことは何でもなかった。

　レトルトの麻婆豆腐を戸棚から取り出し、それを加熱する。はじめて裏面に記載された調理方法を調べて、その通りに電子レンジで加熱した。料理のにおいは複雑だった。居室はそれだけで十分なんともいえないにおいがしたものの、料理はそれを無視するほどに強いにおいだった。
　電子音のあと、それを取り出す。樹脂の容器は触れると熱かったが、縁のあたりは持てないこともなかった。
　
　麻婆豆腐の味は、それなりだった。嚥下すると温度が喉を下った。胃に何かが収まるだけのことなのに、この奇妙な充実感は一体どういうことだろうか。最高の気分だった。

　それから、ベッドに横たわってみる。そこに置かれたまくらは居室そのもののにおいがする。口についていた麻婆豆腐が枕カバーについて、赤いシミを作った。

　ソネルはどこにいったのだろうか。