ENo.0116　ファロ・マクルス

破損した装甲の張り替えは終わった。各関節部にもちゃんと油を差してある。武器の調達が途中だが、これは既にリオが手配を済ませてくれている。遅くとも明日には着くだろう。それから調整をしても十分に間に合う計算だった。
機体としての私の状態を一通り確認してから、私は義体の目を開いた。若い男の両手が視界に映る。私はそれをじっと見る。
握りしめた手の感触、空気が頬に触れる感じ、この体を支える強化骨格と人工内臓と人工血液の重み、視界を横切る緑の髪。どれも、ここが夢だとは……或いはこの体が指人形だとは思えないほどに真に迫っていて、悩んでいるのが馬鹿らしくなる。

（いや、もう結論は出た。悩む段階は過ぎている。今は行動する時だ）

意識を切り替える。私は私のできることをする。私が残存領域が生み出した幻に過ぎないのだとしても、私の「原則」は変わらない。リオとリビーさんの幸福、そして艦長の幸福。

（それとお前のエゴと、お前には区別がつくのか？）

そんな自問自答が聞こえて、私は思わず目を閉じた。未だに、この問いには答えが出ない。今の私の自我は、私の「原則」を元に組み上がっている。それは間違いない。しかしそこに、もしかしたらエゴが芽生えてはいないか。ある意味で自己保存よりももっと醜いものが現れて、私の自我に食い込んではいないか。そう思うと不安になる。「あの人達が大事だから守る」と思っていたものが、いつの間にか「あの人達と一緒にいたいから守る」なんてことにすり替わってはいないか。だとしたらば。
そこまで考えたところで、ガレージの隅で物音がした。就寝スペースと整備スペースを隔てたパーテーション、その向こうから衣擦れの音がする。
リオとリビーさんは買い出しと情報収集に出かけている。だからこれは。

「……艦長！　お目覚めになりましたか」
「ええ、今しがた」

やや寝乱れた白い髪をかき上げながら艦長がこちらに歩いてきた。精悍な顔には少し疲れの色が見えて、私は心配になる。最近はこんな状況だから艦長もガレージで寝起きしているし、『調整』も寝袋で行なっている。マットレスなどは敷いているけれど、あまり快適な場所ではない。『調整』の時間が長引くのは環境も影響しているだろう。

「すみません、また随分かかってしまったようだ」
「いいえ、どうかご無理はなさらないでください、艦長。……少し冷えますね。インスタントですが紅茶でも淹れましょうか」
「ああ、いいですね。ありがとうございます。昨日リビーが買ってきてくれた茶菓子もどこかに……」
「小鳥型のサブレでしたっけ、見かけましたよ。ええっと……」

立ち上がって日用品置き場を漁る。二人分のインスタントティーとサブレを用意して私は艦長の元に戻った。作業机を挟んで彼の正面に座る。白い顔がゆるく微笑むのが見えて、何故だかどきりとした。

「こうやってのんびりお茶をするのも、久しぶりですね」
「……え、ええ。最近はどうにもせわしなかったですから」

艦長の柔らかな声に頷いて、私も紅茶を口に運ぶ。質はあまりよくないが、それでも温かい飲み物は気分を落ち着かせてくれる。私のこの体も、そう反応するように作られている。
そうして今、艦長と二人でお茶を飲んでいるというこの環境自体に、どうしようもなく癒されている私がいた。自覚してしまった分、加速度的に悪化しているように思える。……いや、悪化というのはいい表現ではないだろう。これは変化だ。
……艦長は、変化してもいいと言ってくださった。私の変化は無駄ではないとも。
それならば。

「……艦長」
「うん、どうしました？」

言葉を切る。一拍置いて私は続けた。

「もうじき巨人そのものへのハッキングになります。巨人さえなんとかしてしまえば、艦隊とのリンクもなんとかなるでしょう。その時まで、私は全員で帰還できるように全力を尽くすつもりです。ですが……もしも帰還したあと『そこに私がいなかったら』、艦長。リオとリビーさんのこと、よろしくお願いします」

私の言葉に、艦長は少し眉根を寄せてこちらを見た。鋭い眼差しが私を射抜く。

「あなたは『いる』前提で、私は考えておりますよ、全てを」
「……申し訳ありません」
「……しかし、あなたがそういう気持ちも、分からないでは、ない」

少しだけ柔らかくなった艦長の声に、私は思わず息を吐く。この方を怒らせるのは私の本意ではない。だから、説明を続ける。

「ヤケを起こしている訳ではないんです。ここが神様の夢で、私が夢の世界で生まれた存在だとしても、今ここで私たちが生きて戦っているという事実に変わりはありません。ですから、私は自分ができることを着実にひとつずつやるつもりでいます。……それでも」

カップを握る手に力が入る。ぎ、と指の関節が軋んだ。

「『もしも』って思ってしまうんです。どうしてもリオとリビーさんのことが、気がかりで」
「……」

艦長は黙っていてくださっている。私を見る視線が少し悲しげに見えた。

「私らしくないって、自分でも思います。私の最優先事項はあの二人の幸福で、そのためだったらなんだってできる。そう思ってました。以前の私なら、虚構と現実の壁なんてぶち破ってやると言っていたでしょう」

そう、何も知らなかった頃の私なら。
何も考えていなかった頃の私なら、きっと迷いなくそう言っていたはずだ。

「でも、私は自分の本音に気がついてしまった。私は、私の大事な人と……リオとリビーさんと、あなたと、一緒にいられればそれでいいと思ってしまっている」
「……それは」
「皆のためだと言いながら、私は本当は自分のために行動していたんじゃないか、全部私のエゴに過ぎないんじゃないかと考えたら……どうも、ダメで」

喉の奥から引きつった声が漏れた。笑いのような泣き声のような、自分でも何なのか分からない声。
私は艦長に向かって、深く頭を下げた。

「ですから、お願いします。私がもしも、向こう側にいなかったら、その時は……」

大型多脚機体「バーントイエロー」が格納されているガレージ。
僚機「雪華雪香」とガレージを共有しており、それぞれの領域を簡単にパーテーションで区切って使用している。
広い、明るい、機能的、と整備には最適な環境。人数分の居住区もある。
機体の周りにはアンドロイドの青年とオペレーターであるサイボーグの青年がうろついており、時折僚機のライダーである白い男とそのオペレーターの金髪の青年が姿を見せる。
パーテーションの壁には緑の鳥、ケツァールを図案化したデカールが貼り付けられている。