ENo.0030　ガブリエラ・ストークス

　論文を読んだ。

　ガブリエラ・ストークス、もとい篠崎菖蒲の次元潜航は、HCSを利用し、基本的な原理を同じくしていながらも、その方法は独自だった。通常の次元潜航が時空間的な移動にアプローチする一方で、篠崎菖蒲の研究では、時間の位相に着目していた。完全に連続しているものとして考えられていた時間にも最小の単位があり、一定の間隔で並んでいる。重要なのは、時間、という言葉に『間』という字が含まれているように、時間とは単位時間と単位時間の距離であり、単位時間というのは区切りでしかないということだ。篠崎菖蒲の次元潜航は、その時間という区切りを中途半端に跨いだ状態にすることで、通常の時間から逸脱するという技術だ。

　たとえるなら、等間隔に配列されているキーボード……『QWERTYUIOP……』において、QとWを、WとEを、ER、RT、TYと押していくようなものだ。

　通常の次元潜航に比べ、時間的な障壁そのものに乗り上げるようなこの次元潜航は、被次元潜航対象に対しての負荷が大きいうえに、一般的な次元潜航と戦略上の差はほとんどない。生体電池に改造した身体でなければ対象は死んでしまうし、その上、更に維持装置によって保護しなければいけない。

　つまり篠崎菖蒲の追い求めていた技術は客観的に失敗だった。

　篠崎蘭の娘ということからか予算が大きくついたものの、論文の引用件数も少ない。篠崎菖蒲本人も、あまり意欲的に研究していたわけではないということが、篠崎菖蒲名義での活動を眺めているとなんとなくわかった。
　
　それでも篠崎菖蒲――ガブリエラ・ストークスは、自分の身をもってこの実験を確かめた。そして死んだ。

　何が彼女をそうさせたのかは、客観的にはわからない。だが彼女はした。問題のある次元潜航は、彼女の視界をぐちゃぐちゃに幻覚まみれにしていたし、それに見合う何かが残ったようには思えなかった。彼女自身も自分がどういう目に遭うのかは一番理解していたはずだ。第一人者だからだ。

　機材は幸い私の手元にあった。次元潜航のためのアセンがあれば、それでおおよそのことが済む。

　私は検証してみることにした。
もう使わなくなった薄装甲連装のパーツを菖蒲式で次元潜航させる。存在を保証する恒常性装置の、不快な振動音が響き渡るのを感じる。問題なく次元潜航しているように見えるが、何度も次元潜航を行うにつれて徐々にパーツの色味が変化していった。分析をかけてみると、全く同じ組成でありながらも金属の結合がバラバラになっており、光の反射加減が変わっていることがわかった。
　これはつまり恒常性装置というものが、実際のところなにも保証などしていないことを示している。恒常性装置は不完全なダビングだ。一度鋳つぶしたパーツを、溶かした材料で作り直すようなものなのだ。完全といえる精度は見込めない。繰り返すたびに対象は劣化していくし、そもそも前と後で同じ人と言えるだろうか？

　不要な研究。
　不完全な装置。
　それでも篠崎菖蒲はそれをした。

　死亡許容……。

　死にたかったのだろうか？いや、それは違う。あの日記に記されていた言葉は確かに喜びがあった。それこそが満願であると、目標を捕捉したミサイルのように突き進んでいた。
　それは篠崎菖蒲にとって必要なことだったのだ。バラバラになって再び組み上げられる、そのスパイラルを受け入れてまで。

　再び篠崎菖蒲の論文に目を落とす。複雑な数式。

　その中に私は、パラメータαを見つける。
　それは次元潜航する位相を示す重要な要素だ。

　α。

　私はパラメータαを8に設定し、小型の端末を試験機にかける。ENo.682へ、ログデータダウンロードの命令を入力して。